幕末の風雲児、坂本龍馬。彼は、日本全国を走り回り、足跡を残しています。
龍馬となじみの深い長崎には、彼が立ち寄ったであろう場所がいくつもあります。
龍馬の長崎での足跡をたどってみたいと思います。
長崎駅エリアは、龍馬と勝海舟が一緒に回っている事が多いエリアです。
また、古い寺が多く、龍馬以外の歴史も垣間見る事ができます。
本蓮寺 勝海舟寓居跡・沢村惣之丞墓
まず始めは長崎駅にほど近い「本蓮寺」から。
ここに龍馬が来たという資料はないのですが、勝海舟が長崎海軍伝習所時代に寓居であった事、すぐ隣の福済寺に勝海舟と長崎を訪れた際に宿泊していた事から、ひょっとしたら勝海舟に同行して挨拶ぐらい行ったのでは?と勝手に想像しました。
ちなみに、幕府がつくった医学伝習所でポンぺに習い、小島療養所の初代頭取の松本良順もここに寄宿していました。
ちなみに、海援隊士、沢村惣之丞のお墓はここにあります。龍馬の死後、維新の混乱時に無人になった長崎奉行所を占拠。長崎の街を警備中に誤って薩摩藩士を殺害。薩摩との関係悪化を恐れ自刃し、ここ本連寺に葬られました。
沢村惣之丞の墓は、本蓮寺裏手の山の上にあり、結構勾配がきついので、お墓に参る人は覚悟して登って下さい。
沢村惣之丞の墓からの長崎の街。結構高台です。
本蓮寺の歴史は古く、1591年に、ポルトガル人船長の寄付により、ハンセン病患者の為に聖ラザロ病院が建てられ、ジョアンバウチスタ病院も併設さらました。
その後キリスト教禁教令が出た後は破壊され、1620年に本蓮寺が建立されました。
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福済寺 勝海舟・坂本龍馬滞在の地
1628年に建立され、崇福寺、興福寺、さらに聖福寺も加えて「長崎四福寺」に数えられる唐寺であります。
1864年2月23日、勝海舟と坂本龍馬が長崎に到着。龍馬にとっては初めての来崎。
外国艦隊が下関を攻撃するのを阻止するために長崎を訪れています。
ここで一行は40日間滞在と記録にあります。聖福寺では、海舟と龍馬が相撲をとったという逸話も。
福済寺には、原爆被災者と戦没者の冥福を祈り1979年に長崎観音が建立され、内部には地球の自転を示す「フーコの振り子」が、取り付けられており、25.1mと日本最大級との事です。
長崎観音
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聖福寺 いろは丸事件交渉の場
1867年4月23日、伊予・大洲藩所属で海援隊が運航していた「いろは丸」と紀州藩所属の「明光丸」が衝突し「いろは丸」が沈没し、日本初の海難審判と言われている、いろは丸事件の交渉の場となった場所です。
交渉は1867年5月15日から行われ、土佐藩からは龍馬他、岩崎弥太郎なども出席していました。
いろは丸談判が行われたとされる方丈
脱藩浪士集団あがりの海援隊が、大藩の紀州藩から賠償金を奪い取ったと大きな話題になった事件でした。
この聖福寺は1677年に建立と古く、「長崎四福寺」に数えられる唐寺。
映画「解夏」のロケ地にもなりました。
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長崎奉行所(歴史文化博物館) イカロス号事件で参考人として出頭
長崎奉行所の跡地、現在は長崎奉行所が一部復元されています。
1864年、龍馬は勝海舟一行とともに長崎を訪問。外国艦隊による下関砲撃の回避の為に長崎に派遣されていました。その際、立山の長崎奉行所を訪れてます。
1867年、長崎でイギリス人水夫が殺害された「イカルス号事件」の際も参考人として奉行所に出頭していますが、犯行が実証されず、お構いなしで放免されています。
入場料
大人 600円
中高生 300円
開館時間
8:30~19:00
12月~3月 8:30~18:00
12月30日~1月3日 10:30~18:00
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後藤象二郎宅跡 長崎での居宅
清風亭で意気投合した龍馬と象二郎。どれくらい親密になったかはよくわかりませんが、この狭い長崎、一回ぐらいは龍馬が象二郎宅を訪れた事があるのでは?という事で一応紹介しておきます。
後藤象二郎宅跡、現在はテレビ長崎が建っております。
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小曽根邸 近藤長次郎切腹の場所
龍馬を支援した小曽根一家の居宅。もともと勝海舟と仲が良かった小曽根乾堂。
龍馬を公私にわたって支援したのは有名です。
長崎を訪問した際、龍馬とお龍が小曽根家で滞在しています。
亀山社中の同志にだまって英国留学を企てた近藤長次郎が、同志から責められ、切腹したのは、ここ小曽根邸になります。
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長崎奉行所西役所 長崎海軍伝習所など歴史的な場所
長崎海軍伝習所が設立された、長崎奉行所西役所。勝海舟にとっては懐かしい場所であったと思います。
海舟と龍馬が1864年、龍馬は勝海舟一行とともに長崎を訪問。外国艦隊による下関砲撃の回避の為に長崎に派遣されていました。その際長崎奉行所西役所にも立ち寄っています。
当時は、この辺りから船に乗り込んでいたと推測されるので、龍馬も頻繁に訪れていたのではないでしょうか?
先年までこの地には長崎県庁が設立されていましたが、移転に伴い現在は解体工事中です。
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出島 オランダ領事館があった場所
1864年、龍馬は勝海舟一行とともに長崎を訪問。外国艦隊による下関砲撃の回避の為に長崎に派遣されていましたが、各国の総領事とも面会しています。
オランダは、開国後も出島に総領事館を構えていましたが、前年の1863年に総領事館を長崎から江戸へ移されており、総領事は不在ですが、まだ誰かオランダの役人は残っていたのでは?と推測されます。
海舟も長崎海軍伝習所時代のオランダ人の顔なじみの物もいたかもしれないし、オランダ語が堪能である事から、訪れていたのでは?と推測されます。
マンガ「おーい竜馬」では、開国前の出島に侵入するという話がありますが、実際龍馬が長崎に来た頃には、出島のオランダ商館は廃止になった後です。
なので、鎖国中の様に警備はなく、簡単に出島に入れたはずなので、その後も恐らく足を踏み入れた事ぐらいはあるのではないでしょうか?
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東山手12番館 米国領事館があった場所
アメリカ領事館として使用されていた東山手12番館。
1864年、龍馬は勝海舟一行とともに長崎を訪問。外国艦隊による下関砲撃の回避の為に長崎に派遣されていましたが、各国の総領事とも面会しています。
ここアメリカ領事館にも訪れているはずであります。
東山手12番館
12番館の内部。この辺りでアメリカ総領事と面会したのか?
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妙行寺 仮の英国領事館があった場所
大浦で、祈りの三角地帯として一角を担う妙行寺。
開国した当初は仮の英国領事館として使用されていました。
1864年、龍馬は勝海舟一行とともに長崎を訪問。外国艦隊による下関砲撃の回避の為に長崎に派遣されていましたが、各国の総領事とも面会しています。
ここ、妙行事の英国領事館も訪れていると思います。
ちなみに、お隣の大浦天主堂。1865年建造なので、ちょうど工事に取り掛かる辺りだったのかな?と推測します。
後年、グラバー邸に行く途中では竣工してるので目には入っていると思います。
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オルト邸 夕顔丸商談の場
また、土佐藩が購入し、船中八策で有名な「夕顔丸」はオルトより購入しており、オルトとも接触しています。なので、グラバー園内にあるこの2邸には龍馬も訪れたのではないでしょうか?
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グラバー邸 龍馬の武器調達の場
幕末の武器取引と言えばグラバーです。当然龍馬もグラバーと接触しています。
グラバー邸の中2階の隠し部屋は、一説によれば龍馬をかくまった部屋とも言われています。それくらい2人の中は親密であったのかもしれません。
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坂本龍馬のゆかりの地・長崎編!まとめ
坂本龍馬が長崎で訪れたであろう場所を、史実をもとに私なりに検証してみた結果、これだけの場所が出てきました。
改めて見てみると、碑だけ残っている所が多いですね。
33年の人生の中で、日本国中をこれだけ走り回っている龍馬の行動力には改めて驚かされます。
後日、新たな情報が入り他にも行ったであろう場所が出てきたら追記していきたいと思います。
龍馬の長崎での足跡、他のエリアはこちらからどうぞ。
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