幕末の風雲児、坂本龍馬。彼は、日本全国を走り回り、足跡を残しています。
龍馬となじみの深い長崎には、彼が立ち寄ったであろう場所がいくつもあります。
龍馬の長崎での足跡をたどってみたいと思います。
丸山エリアは、龍馬のみならず、幕末、長崎に来た志士は間違いなく通っていたであろうエリアです。
龍馬や、志士たちの酒の上での逸話が垣間見える場所です。
また、要人との会談など、龍馬にとってはビジネスエリアだったのではないでしょうか?
土佐商会跡 海援隊発祥の地
1867年。土佐藩の貿易関係の役所を長崎に設立。最初は後藤象二郎、続いて岩崎弥太郎が引き継ぎ、大砲や弾薬、艦艇を調達しました。
龍馬たちの亀山社中も、土佐藩と手を組む事になり、ここから「海援隊」が発足しました。
海援隊の旗、赤白赤で構成される二曳きの旗もここに掲揚されてます。
土佐藩購入の夕顔丸のオブジェも飾られてあります。
龍馬が長崎から上京するときに語った「船中八策」は、この夕顔丸での出来事です
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清風亭跡 後藤象二郎と和解の場
土佐藩がひいきにしていた清風亭。仇敵同士だった龍馬と後藤象二郎が会談し、意気投合し、今後の政治活動を共に行う約束をした歴史的な場所になります。
海援隊を発足させるきっかけになった場所でもあります。
現在はコインパーキングになってます。
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上野彦馬生誕の地 幕末の写真家
上野彦馬と龍馬がどれほど仲が良かったが少々疑問ですが、晧台寺のすぐ近くに上野彦馬の生誕の地があります。
龍馬が上野彦馬の生誕の地をわざわざ訪れてはいないとは思うのですが、2人並んで像が建っているので、一応挙げておきます。
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晧台寺 海援隊士・近藤長次郎の墓所
長崎寺町通りの入り口に位置するこの寺。長崎では名の知れた人の墓が沢山あります。海援隊隊員近藤長次郎の墓もあり、墓石の文字は龍馬直筆といわれてます。
この「梅花書屋氏之墓」は龍馬書と言われてます。
龍馬たちを支援した小曽根家の墓所の中にあります。
図ではけっこう近いのかな?と思いましたが、勾配のキツイ坂の途中にありました。
この写真ではけっこう上の方に位置します。覚悟を決めて登って下さい。
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大浦お慶居宅跡 龍馬を支えた女傑
龍馬と仲が良かったので、訪れた事があるのでは?というレベルですが。
現在はコインパーキングになってます。
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梅園身代わり天満宮 丸山遊女の信仰の場
丸山の花街の中にある梅園身代わり天満宮。丸山の遊女たちに人気の天満宮で、「身代」を「みたい」と呼び、自分の生活に苦労が無いように参拝していました。
龍馬も遊女に連れられて、酔い覚ましに訪れたかも?
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中の茶屋 文化人の待ち合わせ場
梅園身代わり天満宮のすぐ上にある中の茶屋。江戸時代中期、遊女屋の筑後屋が茶屋も設けた所、文人墨客に人気で遊女たちとの待ち合わせにも使われたとの事。
龍馬も遊女に連れてこられたり、待ち合わせに使ったのではと想像できます。
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小島養生所跡 勝海舟の盟友松本良順が初代頭取!
1864年、龍馬は勝海舟一行とともに長崎を訪問。外国艦隊による下関砲撃の回避の為に長崎に派遣されていましたが、その際小島療養所も訪ねています。
長崎海軍伝習所時代、海舟と宿を共にしていた松本良順もいたので、会いにいったのでしょうか?
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料亭花月 幕末の志士が通い詰めた場所
龍馬の刀傷もあると言われている料亭。
ここ花月で青春を過ごした志士も多いでしょう。
中の様子はこちらで
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丸山公園 龍馬思い出の場所に建立
幕末の志士が長崎を訪れたなら絶対に行っていたであろう丸山遊郭。
その丸山の入り口付近に現在公園があり、そこに坂本龍馬像が建立されてます。
龍馬も何度となく通ったであろう丸山。龍馬にとってここが一番の長崎の想い出の場所かも?
丸山龍馬像のこだわり。龍馬3種の神器として、懐中時計、ピストル、ブーツを身に着けさせてます。
坂本龍馬のゆかりの地・長崎丸山エリア編!まとめ
丸山エリアは繁華街の中にあるので、当時の志士たちもこの町で飲み歩いていたと思うと感慨深いものがあります。
ひょっとしたら、龍馬が一番輝いていた場所化もしれませんね。
龍馬の長崎での足跡、他のエリアはこちらからどうぞ。
龍馬ゆかりの地・長崎港エリア編
龍馬ゆかりの地・亀山社中エリア編
龍馬ゆかりの地・長崎番外編
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